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近親憎悪(1)
2009-01-02 Fri 03:40
ストリートで演奏しているバンドを見ると、目を背けてしまう。
聴くに堪えないへたくそが多過ぎるというのもあるが(何事も己を知らない奴というのは醜い)、根本的にはもっと別のところに原因があると思うのだ。

村上春樹が、次のような事を言っている。少し長くなるが引用しよう。

 オウム真理教という教団の存在を知ったのは、それが最初だったが、そのような選挙キャンペーンの光景を見たとき、思わず目をそらしてしまった。それは私がもっとも見たくないもののひとつだったからだ。まわりの人々も私と同じような表情を顔に浮かべ、信者たちの姿をまったく見ないふりをして歩いているようだった。私がそこでまず感じたのは、名状しがたい嫌悪感であり、理解を超えた不気味さであった。でもその嫌悪感がどこから来ているのか、なぜそれが自分にとって「もっとも見たくないもののひとつなのか」ということについて、そのときは深くは考えなかった。深く考えるほどの必要性を、私はそのときには感じなかったのだ。「自分とは関係のないもの」として、その光景をさっさと記憶の外に追いやってしまった。(中略)

 何故だろう?

 仮説はひとつである。それはオウム真理教という「ものごと」が実は、私にとってまったくの他人事ではなかったからではないか、ということだ。その「ものごと」は、私たちが予想もしなかったスタイルをとって、私たち自身の歪められた像を身にまとうことによって、私たちの喉元に鋭く可能性のナイフを突きつけていたのではないか?(中略)私たちはその存在(姿や踊りや歌)を、論理的思考システムの中からがんばって意識的に排除しなくてはならなかった。だからこそ私たちは、彼らの姿に心乱されることになったのだ。

 心理学的に言えば、私たちが何かを頭から生理的に毛嫌いし、激しい嫌悪感を抱くとき、それは実は自らのイメージの負の投影であるという場合が少なくない。だとすれば、千駄ヶ谷駅前でオウム真理教信者の姿に対して、私が抱いた圧倒的な嫌悪感も、あるいはそのあたりから発生して来ているのではないだろうか?私は立ち止まり、その可能性についてあらためて考えてみる。

   村上春樹『アンダー・グラウンド』より



最近CDを買わないが、理由はたぶん同じ。
聴いても純粋に楽しめない。嫉妬ばかりが噴き出す。
身体が完全に「プレイヤー」になってしまっており、もはや「リスナー」の耳には戻れない。

(つづく)

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あけましておめでとうございます!!
今年もよろしくお願いしますm(_ _ )m

この文章、こないだの河合の模試で出てましたっけ

なんとなく見た事があるような……
2009-01-02 Fri 11:06 | URL | あら #41Gd1xPo[ edit ] | ↑top
あけましておめでとうございます。

これはちょくちょく入試に出てますな。2006年の東大後期にも出た。
2009-01-06 Tue 00:11 | URL | りょう #-[ edit ] | ↑top
 
 
 
 
 
 

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