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猫殺し
2006-09-22 Fri 19:27
すごく難しい問題だと思う。

http://www.j-cast.com/2006/08/21002622.html

僕も人間より動物の方に愛情を感じるタイプの人間だ。人間の子供に「無条件の親愛」を抱くことはないが、街で散歩している犬を見ると条件反射的に目元が緩む。

動物は喋れない。だからこちらから心を配ってやる必要がある。
どんなに躰が苦しくても「痛い」「辛い」とは言えないし、人間のように苦悩を吐露することもできない。
苦悩を外に吐き出せるぶん、人間はどんなに救われていることか。

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何故こんなに動物好きなのか、自分なりに考えてみたことがあるのだが。


僕は飼っていた鳥を殺したことがある。


まだ品川に住んでいた頃だから2、3歳だったと思う。
まだ朝早くて母は寝ていた。僕は鳥籠から文鳥を出して遊んでいた。
理由は自分でも全く分からない。と言うより理由なんか無かったんだと思う。
文鳥を、ぎゅーっと握った。力を込めて。

ぎゅー。ぎゅーーー~~~。

そのうち文鳥は動かなくなった。
「ねぇ・・・。ねぇっ!」と必死に揺さぶっても、もう文鳥が目を開けることはなかった。
僕は火がついたように泣きわめき、母を必死になって起こした。

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普通、2~3歳頃の記憶なんてほとんどない筈なのだが、この時のシーンだけが異常な鮮明さで今でも脳裏に焼きついている。
その後もそれはもういろんな動物を飼ったが、天寿を全うさせてやったものもあれば、飼い方が悪くて早く死なせてしまったものもある。

僕が異様に動物好きなのは、きっと最初に殺してしまった文鳥、その後死なせてしまった動物たちへの強い贖罪の念からなんだと思う。
僕は、今生きている動物を愛することで、死んだ彼等に詫びているんだと思う。

中でも最愛のペットは、十年以上を一緒に過ごしたヨークシャテリアのモコちゃんと、マルチーズのマミちゃん。
僕んちは諸事情により、ひとりっこの僕は毎晩一人で留守番をしなければならなかった。
おまけに窓を開ければ墓地(笑)。怖くて仕方がない。

そこで両親にせがんで犬を買ってもらった。
初めてうちに来た時の彼女たちが、どんなに愛らしかったことか。
毎晩僕は彼女たちと心ゆくまで話をし、遊んだ。もちろん一緒の布団で寝た。
親は信用できなかったが、彼女たちは信用できた。

モコちゃんは15歳まで生き、僕が24歳の時に天に召された。
3歳若いはずのマミちゃんは、その三ヶ月後にあとを追うように逝ってしまった。

運命みたいなものを感じた。

僕が死んだら、彼女たちの遺骨は絶対に僕の骨壺に入れてもらう。これだけは絶対にやってもらう。
そんなもの人間の墓には入れられないと言うのなら、入れてくれなくて結構だ。
一緒に野にでも山にでも散骨してくれ。

あぁ、今こうしてタイプしてても涙が出て来る。
悔しい。ずっとずっと、ずーっと生きてるもんだと思ってた。

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「私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢さからだ。
さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない」


この坂東眞砂子の謂いが本心から出たものなのか、炎のように噴き出した批判に対する単なる自己弁護なのかは知らない。

「避妊も、生まれた仔猫を崖から落とすのも、結果は同じではないか」というのも、理屈としては確かにその通りだ。

しかし「表現の仕方」が間違っている。
結果は同じでも、母猫の目の前で生まれたばかりの仔猫をなぶり殺すという、その「表現の仕方」が間違っている。

例えば右翼の街宣車。
右翼思想の是非はさておき、あの、ラウドスピーカーからけたたましく垂れ流される騒音に、まともに耳を貸す人がどれだけいるか。

「動物愛護」でも「嫌煙運動」でも「エコロジー」でも何でもいいが、「ごりっぱ」な思想を盾に他人に毒づくしか能のない連中には、そこのところをよく考えてもらいたい。


表現の仕方を間違うと、どんなに崇高な思惟も、腐った糞尿の如きものに化す。

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